存在の不確かさを恐れた時、三毒を従えるという生き方に辿り着いた話

宇宙 思考

 

心や病んでいる時、現実逃避のためなのかぶっとんだことを考えたりする癖が昔からある。

高校生の時、よく河原に寝そべりながらこんなことを考えていた。

 

「宇宙っていつ終わるんだろう」

 

 

宇宙について考えるとそこには恐怖しかなかった

 

宇宙のことなんて誰一人としてはっきりとわかっていない。

僕が知っていることは宇宙は広くて未だに端までたどり着いたことがない。そもそも宇宙に端があるのかどうかもわからない。

宇宙がどうやって始まったのかもわからない。一応有力なのはビックバン説。

宇宙はとても寒くて息ができない。

ブラックホールという空間があってそれはありとあらゆるものを吸い込み、吸い込まれたものは出てこれないということぐらいだ。

そんなよくわからない宇宙の中にある地球。

その地球に住んでいる自分。

もし宇宙がどうにかなって例えば一瞬で消えてしまえば、自分自身も一瞬で消えてしまう。

もしとんでもなく大きい隕石が地球にぶつかれば、地球なんて一瞬でバラバラになってしまう。

そういうことを考えると、自分という存在がいかに小さく、自分という命がいかに儚いか思い知らされる。

そして得体も知れない宇宙という空間に今生きているということ自体が不思議で不確かで恐ろしいとも感じた。

 

 

何もない無という空間は存在するのか

 

宇宙がビックバン(大きな爆発)で誕生したのだとしたら、それが起きる前は何であったんだろうか。

僕は科学的なことはよくわからないが、核爆弾よりもっともっと大きな爆発がビックバンだとする。

勿論そこには小さな原子、量子が存在しているわけだがその原子や量子はそもそもどこからやってきたのか。

原子も量子も時間の流れも何もない空間(空間と呼ぶのもおかしい)というのは存在するのだろうか。

もし存在したとしたらそこへどうやって原子や量子はやってきたのか。

何もない無という空間がビックバンの前にあったとしたら、そのあたりの説明が難しくなるような気がする。

それらが突然、何の前触れもなく魔法のように現れるのだとしたら、全てに原因や理由があるという理屈は通らないことになる。

何もない無というものはありえないのだろうか。

そうなると宇宙の原型はそもそも存在するという考え方のほうが人間には考えやすいだろう。

 

 

 

 

最近突然、あるものに引き寄せられた話

 

先に断っておくが僕は無宗教で、昔も今も今後もどれか特定の宗教に属する気は全くない。

宗教を否定しているわけではなく、それぞれの宗教から学ぶことはたくさんあるし、自分が共感するところだけ取り入れて生きていこうというスタイルなのだ。

 

今年の5月に椎名林檎が「三毒史」というアルバムを出したのはご存知だろうか。

アルバム名を聞いた見た時、「三国志」をもじったものなのかと思ったがそうではなく、三毒というのは仏教用語で人間が最も克服すべき3つの煩悩のことであることを知った。

アルバムの一曲目に「鶏と蛇と豚」という曲が収録されているのだが、これがまさに三毒なのだ。

三毒は貪・瞋・癡(とん・しん・ち)、貪り、怒り、愚かという意味でそれぞれに象徴する動物がおり、それが鶏・蛇・豚、だ。

この曲では般若心経を唱えるお坊さんが三毒を従える椎名林檎に消滅させられていくというPVがある。

仏教的には三毒は克服するものであり、さらに般若心経では色即是空という考え方があり、固有の実体としての自分という存在はそもそもなく、たまたま自分を構成する要素が集まって一時的に自分を形作っているだけであるとされている。

 

そこには色(物体)は因と縁が揃って果になる、という諸法無我の考え方があり、わかりやすく言うと、ディスプレイ、キーボード、メモリ、その他の色々な部品が集まりパソコンというものがあるけれど、パソコンという固有の実体は存在しないという考え方だ。

そのパソコンを構成する部品一つ一つもさらに分解していけば部品も固有の実体はなく、最終的には分子や量子などの粒子に辿りつくわけだ。

 

椎名林檎の「鶏と蛇と豚」の意味を知る前に、Youtubeでランダムにおすすめ動画を再生していたら、般若心経とテクノをかけ合わせたテクノ法要という変わった音楽が出てきて、聴いてみるとテクノのサウンド(BGM)にのせてお坊さんが般若心経を唱えるという面白い楽曲と出会った。

そこから般若心経ってなんだろう、仏教ってどんなだろう、と調べていくうちに三毒という言葉が出てきて、椎名林檎に繋がったわけだ。

そのこととはまた別の話だが、今年始めに「青の炎」という小説を読みだしたのはいいがずっと途中から読んでおらず中途半端なまま年を越したくないという理由で最近やっと読み終えたのだが、その本の途中に、決して怒らない主人公の友達が登場する。

その友達はおじいちゃんに昔から三毒のことを教わっていて絶対に怒らないと決めているという面白い青年だった。

 

テクノ法要、三毒史、青の炎、全てバラバラの時期に知ったものなのに全て仏教や般若心経に繋がるものであったと気づいた時、もしかしたら何かしらの理由でそれらに引き寄せられている自分がいるのでは?と思い始めるようになった。

 

 

 

 

自分という存在が不確かだということ

 

結局宇宙のこともわからず、さらに自分という固有の実体はないとなると、一体自分って何なのだろうという問いを死ぬまで背負って生きていくことになりそうだ。

勿論そこには恐怖がつきまとう。人間は自分が自分であるということを無意識に認識して生きているが、その認識がずれ始めると途端に不安定に不自由になっていく。

仏教では諸行無常、抱いている不安や苦しみ、憎しみは一時的なものであってそれが永遠に続くことはないと言うが(それらの感情すらも因縁が揃っているあいだだけ生じているものだから)、それを受け入れたら今度は自分の不確かさという不安がつきまとう。

僕は生きている実感がないと生きられないし、だからこそ良い感情だけでなく、負の感情も大事だと思っている。

幸福だけでなく、不幸すらも、いや不幸のほうがより自分の存在を認識できるのだ。

宇宙という不思議や、固有の自分という存在はないという教えは知識としてはとても興味深いものだが、心からそうなんだと思う日はこないかもしれない。

そういう意味で、椎名林檎の「鶏と蛇と豚」は一種の安定剤のような役割を果たしてくれる曲だ。

貪り、怒り、愚かさ、これに支配されるのではなく従えて生きることこそ人間らしさを維持しつつ恐怖しない生き方なのかもしれない。

 

 

 

 

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