「普通」の呪縛を解いてくれたのは「普通」という感覚だったお話。

思考

 

ずっと昔から「普通」という言葉が嫌いだった。

普通じゃない、普通はこうする、普通ならこう思う、普通って何なの?

普通じゃないといけないの?

自分は普通じゃない、つまり異常なの?

普通ってそんなに大事なことなのか、若い時の僕には答えが出せなかった。

 

しかし最近、普通であることの大事さを知る出来事があった。

と言っても僕はちっとも普通じゃないし、昔のように普通に対する嫌悪感こそなくなったが、未だに普通の人間でいることが正義なんて思っていない、

僕が言う、普通であることの大事さ、というのは、社会的側面から「普通」という「感覚」を持ち合わせているかどうか、ということだ。

 

例えば、あなたがスーパーやデパートに買い物に行ったとする。

レジは混雑していて客が列を作って並んでいる。

そこにあなたも並んだのだが、少し離れた売り場に呑気に世間話をしている店員が二人いる。

「どうしてこんなに混雑しているのに、あの店員たちはレジを手伝わないのだろう?」

きっとあなたはそう思うことだろう。

 

ここですでに「普通」という感覚があなたにはある。

「普通なら手伝う」

「普通なら手伝えないのだとしたらお客さんの列から見えないところに逃げる」

あなたの普通という感覚はそう言っている。

つまりこの店員二人は「普通」という感覚があなたとずれている。

 

別の例。

 

比較的仲の良い3人組がいる。

その内の一人Aがある病気にかかってしまったという話をこっそりとする。

するとその内の一人BがAと全く親しくない人間にその話をする。

Aは「内緒にしてとは言わなかったけど、普通こういう話は他人には言わないと思っていた」

とBに対して思うのだがBは「てっきり他の人にも話しているのかと思った」と言う。

ここでもAに対する普通はBには通じていなかったことがわかるだろう。

 

並んでいるあなたや病気のAさんが「普通」の人間であるかはわからない。

とんでもなく変な性癖を持っているかもしれないし、強烈な個性を持っている人間かもしれない。

しかし、一般的な「普通」という感覚を持ち合わせているということは間違いないだろう。

 

この一般的な「普通」という感覚はとても大事で、とくに仕事をする上ではこの「普通」という感覚がズレていると何かと問題が起きる可能性が高い。

 

「普通」という言葉は言い換えれば「一般的には」ということ。

この「普通」という感覚は、性格を変えるわけではないのでいくらでも身につけることはできる。

僕が大事だと思ったのは、「普通の人」でいるということではなく、「普通」という感覚や知識を持ち合わせているかどうか、ということだ。

 

この感覚に乏しいと、人との関係がおかしくなる。

上司の部下に対する「パワハラ」、友達同士のいじめ、子供にたいする接し方、ありとあらゆる人間との関わりにおいて「普通」の感覚がなければ、知らない間に事態は悪化し、取り返しのつかないことになることもある。

「普通」であるかどうかは問題ではなく、「普通の感覚」を持っているかどうかということ。

その感覚がある上であえてそうしないこともあるだろうし、逆に自分の意見とは違うがあえて普通であろうとすることもあるだろう。

 

 

この感覚を身につける方法はやはり人とのコミュニケーションにあると思う。

「普通」の感覚は持っている人が持っていない人に教えることもできる。

その時には、「普通」はこうなんだ!という言い方をするのではなく、あなただったらどう感じる(思う)のかをまず相手に問うことから始めたほうが良いと思う。

三角形の面積の求め方を「底辺×高さ」だと間違って覚えている人に、ただ、「底辺×高さ÷2」が正しいと教えるよりは、「底辺×高さだと、四角形の求め方と同じだと思わない?」とワンクッションおくことで押し付けるのではなく一緒に考えるというスタンスで問題を解決することができる。

 

社会の一部として生きていくには、「普通」をいう感覚はとても大事なものだなと感じ、それと同時に自分が無理に「普通の人間」でいなければならないという制約から開放された僕のお話でした。

 

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